時間はかかるが、時間をかける価値のあること。

5時起床。
もぞもぞと動き出す。外は天気がいいようだ。前日に用意していた服に着替え、ランニングへ。
Tシャツが風通しの良いポリエステル素材で、腹が冷える。そのために、この季節でも、腹巻をまいていざ外へ。
5時といえど、世界は変わらず動いている。もちろん見かける人は少ないが、そこには、昨日と同じ世界がある。
20分ほど走り、ようやく身体が動きだしてくる。それでも60歳くらいのおっさんに抜かれる始末。
まぁ誰かと競争してるわけでもないし、とおもいながらも、少しペースが上がる。
50分くらいで、あれ疲れてくるぞ。30分と60分の間にはどうやら溝があるようだ。そこに足をとられないように、日々の練習を積み重ねていくか。
10kmほど走り、今日は終わり。

朝ごはんはヨーグルトとミューズリーと決まっているが、今日はどうしても肉が食いたかった。
なわけで、昨日お肉屋さんで買ったソーセージをブラックペッパーで味付けして食う。
ん?ん?俺が求めていたのと違う味だった。僕は焼き肉が食べたいようだ。

8時からはダンス場へ。
いつものルーティンワークに加えて、目隠ししながら実況中継。
目隠しはまだよくわからないが、実況中継はやるか。自分が何をしているのかを意識する。もちろん身体は意識しているが、言語として捉えれるように、日常生活の延長線上に動きを持ってくる。
それは日常の動きをダンスに組み込むということではなくて、ダンスを日常に組み込む。
あくまで、あるのは日常。自分が生きているということ。ダンスはその部分集合でしかない。

作品創作。
表現するということ。世界をみる、世界を起こす。ただそれだけ。
僕は振りから作品を作りまくってたから、テーマありきの作り方は苦手なんだと今更ながら実感。
「どういう世界に身を置き、どのように動くか」
もちろん動きから作品を作るということも可能だがそれは、末端部分。
末端部分が作品を作るのか?
しかし、根っこの部分を大きく変えていけば、動きも変わってくるのではないだろうか?

自分に対する課題は名を変え、形を変え、常にまとわりついてくる。表現の場所を変えようと同じだ。なんとかそれを克服するしかない。
芝居、棒読みになる。抑揚がなくなり、感情がうまく伝わらず、自分の間がなく、特徴のない人間になる。
ダンス、振りをこなしている。感情が見えてこない。間を怖がっている。
感情?身体で。感情を爆発させることを身体に叩き込むしかないな。


以上、今日のルーティンワーク、大体4時間。時間はかかるが、掛けるだけの価値があることをやっている。


1.感情で動くことに身体に覚えさせる。