慣れ

僕らは何らかのことに慣れながら生きている。

例えば、朝仕事に出るために起き、仕事をする。これも一種の習慣だ。

その中にも、僕らは無意識的に働いている時がある。ただ、始業時間となったから、働く。習慣の一つとして、働いている。ある意味では物事に慣れちゃ駄目なんだ。

物事に慣れてしまうと、不快な習慣すら何も感じなくなってしまう。

あるいは、最高な光悦体験のようなものを味わえずにただ慣れで生きている。

 

自分の意志で行動をしていく。それだけなんだが。

 

 

傷のない時間

彼は常に効率的な時間を過ごそうとしている。
ご飯を行く時にとても疲れのような、彼のペースに合わせなければいけない観念に追われる。
彼は何事にもよらず、迷いがない。彼は時間を自己の範囲名で使おうとしているのだ。
けれども、それは同時に突発的な事態に合わないような時間の過ごし方をしているとも言える。
どちらが正しいとか、間違っているとかではない。
人には人の生き方があり、僕は彼の生き方に口出しをするつもりはない。
けれど、効率だけを求めた人生になにがある。
傷のない時間をすごした人生になにがある。

先の決まった人生を生きることほど退屈なことはない。

先の決まった人生を生きることほど退屈なことはない。
それは例えば、僕の送る人生のことを言うのだろう。
結婚し、子供が生まれ、家族の為にお金を稼ぎ、多少の浮き沈みこそするが賃金を稼ぐ。
しかし、それらすべてがネット上にどのような人生として送ることができるかが書かれている。
僕らはやはり情報によって不幸にもなったり、幸福にもなったりするのだろうか?
もちろん、自分が送る人生の感覚すべてネット上に流れているわけではない、だから僕らは未来のことは同等のものとして捉えつつ、ただ今ある感覚を感じていくだけなんだ。

深夜高速

誰にでも人生の一曲というものはある。
それが今の僕には、「深夜高速」という曲だ。
この曲の歌詞
「壊れたいわけじゃないし 壊したいものもない」
という部分は僕の核心をついている。
何かを破壊できる力も、どうしても破壊したいというものもない。
そして、そう考える自分を壊したいとも思わない。
ただ、傷つきながら生きていく。それが僕の生き方。

 

深夜高速

深夜高速

 

やらなくてもいいけど、やったほうがいいこと

最近7時起きに目前になってきました。

2月になるまでは、5時に起きて朝ランニングをしてきたですが、どうしても仕事が忙しくなったため、睡眠時間を確保するつもりでゆっくり寝てしまってます。

(5時に一度目は覚めるのですが、 走る意欲がわかないというが現状ですが)

いままでは朝のルーティンを自分の調子のバロメータにしてきました。

例えば、朝走って「今日は身体の調子がいいな」とか、
「ご飯がうまい」とか、その程度のことです。

その感覚で自己管理をしていた面もあったのですが、その習慣がめっきりなくなったみたいです。

 

今は、ジムに行くこと、英会話を習うことを始めたの、そのせいでランニングに時間を避けなくなり、今年は異なった習慣で自己管理をするのかもしれません。

自分ができるキャパは在るのだなと再認識しました。

また、やらなくてもいいけど、やったほうがいいことっていっぱいあるなとも。

街に雪が降った。

街に雪が降った。
ほとんどの雪は、昼間に差し込む太陽によって溶けてしまっている。けれども、路地の端や、住居の裏など、人の視界の隅には残るような場所に雪はまだ残っている。
その雪をみると、僕はひどく気持ちが悪くなる。
それは、この街に生まれた汚れた塊のように見えるからだ。
その中には僕には得体の知れない(知る由もない)事象、あるいは表面的にきれいな物質で覆うしか方法がない気味の悪いものが隠されているような気がするのです。

僕は雪解けを待つ。
けれども、また「雪」はしんしんと降ってくる。

孤独は生まれる

孤独は生まれる。どういう時に孤独を感じるか。なにが社会に問題としてあるのだろうか?

でも、社会問題は金銭価値に置き換えづらい。深く寝を根差したものには価値が見読められるのはどうしても遅くなるのです。