世界を知る代償
もはや宇宙の真理は釈迦が悟って文言化されている。
もちろん釈迦が悟る前から宇宙の真理はあったわけだが、釈迦の悟りによりそれが初めて人間の世界に表出したわけです。
この宇宙には、「私」も「あなた」も「国」も「川」も何もなくただ一つの宇宙がある。
その中で、「私」は様々な縁故によって、結ばれていて、「あなた」と繋がり、「国境」と繋がり、「川」と繋がっている。
私のモノも存在しないし、あなたのモノも存在しない。ましてや、国のモノも存在しない。
すべて一つなのだから。もし私があなたのモノを盗ったとしたら、それはわたしのものを盗ったということです。
また、動物は人間に対して、恩を受ければ報酬を与える。
それは様々な古典文学で文書化されている。
では、「私」は「あなた」からの恩に対して、どう報いればいいのか?
菓子折りを送ればいいのか?いや、そんなことはない。
「私」は私という存在をわすれて日々を懸命に生きていくということが、あなたの恩に報いるということなのです。
んで一言。
宇宙の真理を知るために、片足を失いました。
坐禅会に参加し、一時間ほど座禅をし終わり、立つと、左足に一気に血流が流れこむような衝撃を感じ、その瞬間激しい痛みを感じ、いままだ左足の感覚はない。
ナマモノ
しばらく踊ることをサボっていた。といっても、1週間くらいのものなんだが。けれども、自分の中で何かが変わってしまってるような気がしていた。以前は歩くことができていたのに、今では歩くことができなくなってしまっている。そんな感覚。
久しぶりに踊ると、繊細なダンスができていない。ただの運動になっている。
もはや、自分でも感じるぐらいの身体感覚の衰え、プロが気づかないはずがない。。。
身体はナマモノで、毎日何かを起こさないと、腐ってしまう。
身体を介して体験される人生もナマモノといえるのかもしれない。
だからか、習慣化することが、あるいは空気を吸い込むように何も考えず行えることがとても大事なのだと思う。
一度怠ると、腐ってしまう。代替のモノがあればいいのだが、そんなものはない。
人に教える
人に教えることが好きなのかも。
人生に迷った時に道標となるような教養、言葉を残せればと思う、
僕が死んだ後には何も残らなない。だから、人を介して自己を残したいのかもしれない。
ただ、それだけの理由で人に教えてみたい。
波
仕事の楽しさに波があって。
いまは全然楽しくない時期、人に指図されるのにも嫌気がさすし、
人の欠点ばかりが見えてくる。
楽しく仕事がしたいな。
( 楽しい != 仕事 ) という考え方は好きじゃないだが、
今の仕事を続ける限り、そうある気がします。
深夜高速
ヘッドライトの光が深夜の高速道路を照らす。
この仕事を初めて、数十年が経つ。東京と大阪、あるいは都市から都市へと荷物を運ぶ仕事だ。
元々、人に関わることが苦手で始めた仕事。誰とも喋らず、ただラジオを聞きながらアクセルを踏むだけ。特に楽しみはないが、つらくもない。 ただ、孤独に耐えれるかどうかだ。
けれども、いつのまにか、家族との時間も失っていた。
人と触れ合うことの億劫さを知り、そして、自分の仕事の辛さ、孤独、ありとあらゆることを分かってはもらえないだろうと決めつけてきた。
子供は俺のことを嫌っているだろう。
彼らがいなくなった今思う、俺は何を得てきたんだろう。
そう親父が思っているのを知って、僕はとてもつらくなる。
僕は、彼を長年避けてきて、今でもどうしたらいいのか、分からない。。
ただ、彼の気持ちを知りたいと思う。
どうして人は人を傷つけるのだろうと、自分自答という逃げ道に逃げるのではない。
あるいは、分かり合えない決めつけるのではない、ただ想ってみることが第一歩だ。
等間隔に置かれたカラーコーンが、危険信号の点滅のように道路を敷き詰められている。
俺は眠気を覚ますために、ラジオをかける。夜の道をただ走るだけだ。レールから外れないように。
何時間も走り続けると、辺りの景色がゆっくりと感じ、まるでなにも変わっていないかのような感覚になる。
けれども、朝日が差し込む時間になると、俺は目的地の近くにいる。深夜の走りが、おれを何処か遠くへ連れてきたのだ。
俺と親父、やっていることは変わらない。
時間によって、どこかへ連れて行かれる。親父になりたくないと思いながら、俺は親しい存在になっていた。
人は分かり合えない。
人は分かり合えない。
けれども、それを前提に立って、人のことを理解しようとすること。
不可能なことに向かって、限りなく極限的にゼロに近づくまで、追い求めようとすること。
僕は、誰のことも分かってやしない、親のことも、僕自身のことも、そして彼女のことも。
それでも、同じ感覚を共有したいと思う。それぞれが生きる世界で共通的に響く音楽を、たとえばダンスホールで流れるクラブ音楽のようなものを。そこでは、ある一定の音楽が流れるが、それぞれが感じる気持ちよさは異なる。
けれども、世界においては、どんな音楽がなっているのかさえ分からない中で、そのリズムに乗らなきゃいけない
基礎
ダンスを学んでいて、何回も口を酸っぱくして言われることがある。
「基礎」が大事。
そういえば、僕は今まで人に教わるということをしてこなかった。
受験勉強も独学で乗り切ったし、ダンスも芝居も本や映像から、学び取ったモノでうまくなろうとしていた。
でも、ダンスを5年経って壁に当たる。上手くならない、自分の思うように身体が動かない、作品が作れない。
それは8割方基礎がないから、生まれる原因だったような。
2年くらい、基礎をみっちり学び取る。
そこからだ、独学でできるのはと思う。
んで、一言。
会社ではこういうのは話す機会はない。
ただ、彼らの言葉は重くなく、巷にあるような本のキャッチコピーに書いてあるどうでもいいようなことを議論の主題として掲げる。
知りたいのは、その根源なんです。
出会い
大学生の時に、芝居を初めて、ダンスをするに至る。
その過程で多くの人に出会うことが出来た。
芝居をしていなければ、多分僕は今より孤独で、今より自分のことが嫌いになっていったのかなと思う。
物事は意外と良い方に転がっているのかもしれない。
過去の行いの意味について、考えた。
ダンス
ダンスはドキュメンタリーです。どれだけにかっこいいことを言っても、汗と涙と鼻水を垂らして踊ります。
綺麗なものをみたければ、芸能人を見てください。
というわけで踊ります。
詳細は、HP。