白紙の紙を渡され、僕らは生きていく。
朝、仕事に関する自己啓発本を読む。
読んだ本は3冊。
「一万円起業 片手間で初めて十分な収入を稼ぐ方法」
、他の2冊は忘れました。一万円企業は新聞の広告記事で気になっていたが、
これで簡単に金持ちになれることもなく。当たり前だが。
けれども、多くの人はこういった思考停止状態になっているのではと思う。
自分の考えがあっているか、論理的に考えたことはありますか?
その答えを人に求めていませんか?
自分で考えて答えを導き出さないといけない、たとえそれが人生で一つであっても。そうなると、自分なりの答えを出すことが人生なのかなと。
白紙の紙を渡され、僕らは生きていく。
人生は進んでいて時間は経過していく。胎児は生まれた時は真っ白な紙の上に生まれる、そして真っ白な部屋で立ち上がり、その部屋の中に様々な分野の書物、あるいは本にも閉じられないような雑多な紙がその中に打ち込まれていく。そして、その中で解答を出すように生きていく。もちろん、その問題も自身が考えるのだが。
その問題は自分の人生の中で、答えが出せないような問題でも在るし。その中で生命を立つ人もいる。その部屋は、日本家屋のように梁があるのか、首をつって死んでいくことができる。あるいは、脳という部屋では問題を上げることが出来ず、あるいは問題を未解決のまま紙を答案として出すことが死ぬことである。
そして、答案が出した後に人生の余生を生きる。
、、、そういった生き方でいいのかな?
人生に余生があっていいのか?僕は中学生、高校生、あるいは小学生の時にギリギリまで紙の上に自分の考えという答案を書き続けてきた。そして、ちょっぴりカンニングもした。
ぎりぎりまで死の最後まで-あるいは試験上のルールは違反するが死の後でさえ-解答を書き続けることができる。
そして、僕の現状は問題提起すらできていない。
それが僕のいま。僕は雑多な知識によって混在した色の部屋の中に真っ白な紙をもって歩きまわっている。
そう、僕らは考えないといけないのです。自分の力で生きていかなければいけないのです。周りの人に解答を求めることは望ましいことではない。
自分の感性によった問題を人生で解いていかなければならない。
ビジネス本を読んでこんなことを僕は考えた。
世界を理解するには、比喩的に世界を捉えていくべきなのか。
最後にうろ覚えだが、本の中で印象に残った言葉を書いておく。
もちろん、部屋に次の言葉が投げ込まれた時に、それぞれの反応は違っている。違っていい。
その違いは許容できるが、思考しないことは許容できない。
みなさん、考えてみてください。
"会社は20-30万円給料を支給する生活保護受給する団体になっている"
"自分のやりたい仕事を探していたわけではなかった、自立したかっただけ"